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  • キラキラ✨

    キラキラ✨

    11/5満月🌕キラキラ✨

    キラキラ✨した華やかな世界に子どもの頃から憧れていた気がする。
    学生時代も、いつかキラキラ✨してみせる!
    ってジミジミ💦と過ごしていた。
    漠然としてるけど明確な、それが📺テレビ業界に就職した根本的理由(色々他にも理由はあるけれど)
    で、📺テレビ業界に30年以上どっぷりハマり、かなりのキラキラ✨世界と、その分裏側の黒影ようなクラクラ⚫️世界、まさに光と闇を体験した。キラキラ✨も愉しかったけどクラクラ⚫️もそれはそれでなかなか味わい深かったw

    で、いい歳したオッサン教授になり、学生さんと日頃付き合ってると、みんながむしろキラキラ✨しているように見える。
    でも、そんな学生さんたちは(僕がそうだったように)ジミジミ💦な日常からキラキラ✨した世界にいつか行きたい!と夢見ているように見える。
    彼らからしたらキラキラ✨は未来方向から輝き、
    僕からしたらキラキラ✨は過去方向から輝いているのだ。
    すると多分、キラキラ✨にもドップラー効果が適用されるのだろうw

  • 『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』by 森博嗣(2015)

    『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』by 森博嗣(2015)

    森博嗣『彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone?』(2015)au了。Wシリーズ1作目。
    森博嗣ミステリをちょうど1年前『すべてがFになる』から読み始めて、あらかた読み了ってしまってSFに挑む。
    これまためちゃくちゃおもしろい!
    哲学的要素をミステリに紐付けるか?SFで企てるか?と推察して読み始めたが、このSF作品は同時にミステリでもあり、『すべてがFになる』の軌道上にあるのだ。
    森博嗣(敢えて呼び捨て)真底恐るべし。

  • 11/5満月:メルマガDIVERSE第183段『そのキラキラを愉しもう!』

    角田陽一郎のメルマガDIVERSE vol.183 2025年11月5日Full Moon

    『そのキラキラを愉しもう!』

    怒涛の10月を終え、文化の日に勤務校の学園祭があって、それが終わって、満月になりました。

    なんか事切れてしまって、逃避行して、久々独り温泉宿へ。

    そこで、温泉に浸かって、ぼーっとしてたら、キラキラの相対性に、ふと気付かされたのでした。

    人はキラキラが好きだ。みんなキラキラに憧れ、キラキラを目指し、そしてキラキラに近づけないことをいつしか悟って、落ち込んだりする、諦めたりする。

    でも、キラキラは、目指す場所にあるわけではないのだ。

    キラキラは、自分の生きている、今此処に、あるのです。

    他人のキラキラは、自分には、とてもキラキラ輝いて見える。

    けど、

    自分のキラキラも、他人にもまた、キラキラ輝いて見えているのです。

    キラキラの渦中にいる時は、気づかない。むしろ大変だったり、困難だったりするから。

    でも、だからこそ、キラキラは、輝いてくるのです。

  • 川喜田半泥子@石水博物館

    川喜田半泥子@石水博物館

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    津市の石水博物館を訪れる。
    江戸時代からの豪商川喜田家のコレクションと川喜田半泥子の陶芸作品。東の魯山人、西の半泥子と云われる。
    半泥子という号は、禅の導師から授けられ 「半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず」何にでも没頭し泥んこになりながらそれでも冷静に己を見つめることができなければならない、という意味。なんとも興味深い人物、Tropicで取り上げたい!

    https://tropic-media.jp/contents/ef0f14141bd6

  • 刀を抜かないで

    刀を抜かないで

    11/1霜月朔日
    今から3ヶ月ちょっと前の7月末、ある件で、僕は久々にキレた(刀を抜いた)のであった、相手の云っている論理が悉くおかしかったから。その抜刀は決して間違ってないし、結果その後の経過はそれでよかったと想う。それにより一定のヘゲモニーを手に入れた。
    ちなみに去年は脱力タイムズ出演時に小籔さんにキレたがwこれはまあ演出的御愛嬌だし、去年から大学教授を拝命したから、極めて温厚なやり取りを昨今は殊に心がけていたのです。
    でも、今年はその7月末にキレた件以来、キレる(刀を抜く)ことに躊躇がなくなってしまっている。9月頭でも抜刀したし、そして今日も抜いてしまった。抜き癖が憑いている。
    抜刀の理はこちらに当然ある。そういう意味では間違ってはいない。
    でも“抜き過ぎ”である。刀は抜かないに越したことはない。
    抜くと闘いが否が応でも始まってしまうから。始まったら勝つまで斬りまくるし。
    つまり、刀は抜かなきゃ抜かない方がいいに決まっているのだ。
    五右衛門の後悔「またつまらぬモノを斬ってしまった…」をメメントしろ、自分。
    明日明後日は学園祭。なので刀は端から帯刀しないにしよう。

  • 『目薬αで殺菌します DISINFECTANT α FOR THE EYES』by 森博嗣(2008)

    『目薬αで殺菌します DISINFECTANT α FOR THE EYES』by 森博嗣(2008)

    森博嗣『目薬αで殺菌します DISINFECTANT α FOR THE EYES』(2008)読了。
    Gシリーズ7作目。
    そうか!すごいなー。このパターンもあるのか!
    そして最後の一行で、謎解きする展開!

  • 「哀戦士」

    「哀戦士」

    10/31
    闘い了って、〆で焼きチーズケーキ。
    今日の闘いは、最高の闘いであった。
    エンタメ業界にいきなり実戦投入されて31年間、ほとんど闘い続けてきた。
    毎度毎度しんどい闘いだけれども、戦績は決して悪くない。今月は4戦4勝。
    自分はまじまじとエンタメ戦闘マシーンなんだと想う、つまり人体改造手術をされたショッカーとか、サイボーグ化した草薙素子とか、ムラサメ研究所やオーガスタ研究所の強化人間のような。
    現場では縦横無尽に、兵站は手練手管に、戦略は深慮遠謀で、立ち振舞う。時に容赦なくバッサリ切り捨てる。
    だから何だかんだ理由を付けて、その闘いから逃げる作り手や、小物なのに大物ぶる輩とか、基本辟易してしまう、ずるいな、逃げたなって、虚勢を張ってるなって。
    でも自分も心は生身なのだよ。
    そんな闘いの後には、心が荒み、ふと寂しさが襲ってきたりもするのだ。
    闘う相手が一流だったりすると、尚更やるせなさが襲って来る。
    自分はなぜそうまでして闘うのか?と。
    それをわかってくれる人はいるのか?と。

    哀 ふるえる哀 それは別れ唄
    ひろう骨も燃え尽きて ぬれる肌も土に帰る
    荒野をはしる死神の列 黒くゆがんで真っ赤に燃える
    哀 戦士/井上大輔(1981)

  • 了りの、その先へ

    了りの、その先へ

    10/31神無月晦日
    気づいたら10月も最期、の朝。
    窓からは秋空が臨く。
    青空に掛かる電線が五線譜のようで、嫌いじゃない。
    怒涛の1ヶ月も了る。
    “〜ねばならない”って言い方やスタンス、好きじゃない。
    でも、“行かなければならない”って瞬間は、人生に瞬間あるものだ。
    行った先がどうなってるのかは、定かではない。
    了りかもしれないし。
    でも、行かなければならない、のだ。
    了りの、その先へ。

  • いたらない

    いたらない

    10/28
    いたらない、ってなんか不思議な言葉だ。
    そこには、すみません、ってニュアンスが醸し出される。
    でも何事も到達しないことばかり、大体いつも至らない。
    だからこそ、進めたりもする。
    着いちゃったら進まないから。
    ならば何事も、いたらなくても、いいかもしれないとも想うのだ。
    いたらない人生で、いいとも僕は想うのだ。

  • 憶い出してから

    憶い出してから

    10/27
    クリエイティブとは孤独な作業だ、と時として気付かされる。
    自分の価値観を誰もわかってくれない、というような。
    それを説明するのは言葉では限界があるし、
    でもそれを諦めてしまえば永遠に伝わらないし。
    説明しても、諦めても、どっちにしても感じる寂寞感。
    真剣だと高圧的と取られるし、調整すると中途半端になっちゃうし。
    それは失恋に似ている、想いが届かない。
    まあ、そんな孤独な想いなんて、今に始まったことじゃなく、若い頃からずっとそうだったんだよなとも憶い出す。
    さて、憶い出してから、だ。自分との闘いが始まるのは。