2/23
ミラノコルティナ冬季五輪閉会式
デザインセンスとユーモアとエンタメ感がどれも上品でお洒落でイタリア🇮🇹最高!
ありがとうございました!
オリンピック最高!





2/21
他人との不可解なやり取りも、その他人の立場(視点、利点、観点)になって考えてみるだけで、不可解さが消えたりする。
それで納得できるわけではなくても、少なくとも意味がわかるだけで、その後の対処の仕様がたてられる。
「他人の立場になって考えてみる」
これ、幼稚園や小学校で先生によく注意されたこと。
これ、本当に本当に重要で、それはつまり他人の為ではなく、実は、自分の防御の為に必須なことなのだ。
それがわからない大人が多いなーって自分も含めて大人になると実感するんだけど、それがつまり現実世界の生き辛さや、SNS界隈のクソリプや、周辺社会のわだかまりのはじまりだったりするわけなんだな…
「他人の立場になって考えてみる」
これ、上下左右内外公私老若男女の区別なく、
「他人の立場になって考えてみる」
伝わるかなー、他人にも、そして自分の中の他人にも。


2/21
昨日もIPとビジネスの話になり、僕はそこで議論される考え方に多大な違和感を感じたのであった。
そしたら、魚豊さんが言語化してくれていた。
魚豊 手塚治虫さんのように、アーティストがビジネスをやる上で一体何が重要かというと、そこに資本主義への抵抗を含まないと意味がないと思うんです。
「売れているからこうしよう」だけなら、資本を元手に投資をしたほうが効率がいい。これに対して、手塚作品はなんというか、全てに挑戦していますよね。「俺が描きたい。描く意義がある」ということが一番重視されていて、手塚治虫がいいと思ったもの、好みが出ている。
――どうやったら実現できますか。
魚豊 作家が「意志」すればいい。思えばいいだけです。


2/20
2月は早い。とは云え3日短いだけだけど、って想ったけど約3/30ということは1割減なので、それはやはり短いってことだ。今週も
怒涛の如く決まった案件と、
延々進まず滞ってる要件と、
切迫詰まって来てる用件と、
新しく勃発しそうな事件とが、
目白押しでミックスしながら大量に襲ってくる。
それらはいちいちが、壮大だったり、些細だったり、冗長だったり、瞬殺だったりが混在してるので、
その“件のマトリックス”は、もう煩雑で乱雑で猥雑で交雑で、
たまらなく魅力的な経験と実験と発見と卓見で、
きっと未来に振り返ったならば、
それはかけがえのない、最高の想い出たちになるはずだ。


2/20
朝日新聞連載「語る人生の贈り物」、今日でスイッチ・パブリッシング代表で「SWITCH」「coyote」編集長の新井敏記さんの15回で終了。新井氏の生き方に憧憬と愉楽と尊敬を感じながら拝読。
大江健三郎、沢木耕太郎、黒田征太郎、ブルース・スプリングスティーン、片岡義男、村上春樹、サム・シェパード、緒形拳、笠智衆、星野道夫、池澤夏樹、深津絵里、井上雄彦、谷川俊太郎…を巡る雑誌と旅と人生の記憶。とても憧れる。
というかSWITCHに憧れて、僕もTropicという雑誌を発刊したのである。
新井氏の言葉
雑誌の「雑」とは、雑味の生む面白さです。高級料理では捨てられてしまう味ですけど、僕は雑味が好きなんです。雑誌に流れている清濁の「濁」を信じて続けてきました。
雑誌は続けなくちゃ意味がない。次に繋がっていくことが最大の魅力なんです。「昔の方が良かった」と言われても、大切なのは「今」でしかない。綱渡りを続けていきます。
僕も、この気概を持ってTropicを創り続けようと想う。


3/27公開『えんとつ町のプペル 約束の時計台』
試写で鑑賞!!泣いてしまった
あのプペルの続編はどうなるのか?…いい意味で裏切られた展開&世界観!
西野さん、そう来たかっ!!と。
あのえんとつ町の西野亮廣ワールドは、より摩訶不思議によりオリエンタルによりオキシデンタルに、よりレトロによりフューチャーに!
スタッフも一緒に観たんだけど、隣りで号泣していた。


『デスチェアの殺人(上)』by M・W・クレイヴン(2024)〈早川書房,2025〉au了
ワシントン・ポーシリーズ6作目。
もうおもしろくって一気聴き。いつもそうだけど、ヘビーな事件の影で、つい笑ってしまうようなやり取りがたまらなくいい。下巻も一気聴きだな、これは!


2/16多分、駄文
さっきたまたまsnsで自分が以前書いたタイトルを検索してたら、自分(角田陽一郎)の駄文を、ほぼ写して、それを自分の記事として書いてる物をたまたま見つけた。
引用なら嬉しいし、適度に(バレないように)書いてるならそれはまあ仕方がないんだけど、ほぼ同様のタイトルで、で僕は(慣用的じゃない)自分語を故意に使ってるので、それもそのママな上に、適宜改稿や追加はしているものの、まあ多分、僕の駄文のコピペではあるのだろう。
で、それも別にそれでも僕はよいのだが、その人はライター/エッセイストとあり、書籍化したいと書いてある。
だとするなら、それをやってたら、それはその希望に向けて損なのではないかと想う。
この駄文も、どこかで読むのだろうか。まあ大した話ではないので、読んでいただければ、それはそれで真意は伝わるかなと想い、書いてます。


2/16 fictioniumフィクショニウム
(これから綴ることは、あくまで自分の個人的妄想なんだけどw)コロナが猛威をふるってた2020年夏頃辺りから、世界は別世界線に軌道が分岐されたんじゃないかって密かに想っていた(元々はその2020年夏には東京オリンピックが開催されていたわけで)。
その5年余りの間に、世界でも国内でも、社会でも政治でも、人心でも自然でも、そしてビジネスでもプライベートでも、なんか浮き足だったような、不自然な不可解な、というかむしろ茶化されたような、戯画化されたような、fiction的な事件や事態や気分が、リアルに横行しているような気がするのだ。
それまでの歴史にも勿論いろいろあったけど、今までとは決定的にその歴史を機動するdynamismが変わったというか。
それから5年半余り過ぎて、今はその変化は自分の中ではもはや絶対的な確信になっている。
自分はその変わったこの“今までとは違う世界”を(勝手に)fictioniumと呼んでいる。
このフィクショニウムでは、哀しいことも厳しいこともますます起こりそうだし、ハプニングとアクシデントがどんどん頻発して、不確かに不明瞭になって行くのだろうけど、ただ、そんな定常的でない、戯画化された世界が、自分はなんか、なんとなくだけど、性に合ってる気がしてならないのだ。居心地が良いというか。
“今までとは違う世界”なんだけど、「今までとは違う世界にボクは存在してるんだ」と想うだけで、悲劇も喜劇に変わり、ピンチもチャンスに代わり、“今までの世界”では出来なかったことが、途端にマジックのようにどんどん実現して行っている。
つまり、今までの(2020年夏までの)自分は、自分の夢や妄想をテレビという箱の中で、番組という実験で実現させていた(ように錯覚してた)だけなんだけど、今は,“今までとは違う世界”の中で、自分の夢や妄想が本当に現実になってしまっている。
そして、このフィクショニウムの中で、さらにさらに、どんどんどんどん自分の夢や妄想が、もっともっとジャカジャカ実現していくという確信が、今自分の脳内にリアルに存在していて仕方がないのだ。
つまり、ボクの夢や妄想の方がむしろ現実であるというような(そりゃ、居心地がいいに決まってる)。想ったことが(勝手に、自然に)実現してしまう曼荼羅の中にいるような。
自分の頭の中がおかしくなったのだろうか?
それとも、この世界がおかしくなったので、自分の頭の中が起動しちゃったんだろうか?
あるいは、スポーツ選手は時に“ZONEに入る”というけれど、今ボクはこのおかしくなった世界のZONEに入っているのかもしれない。
